生成 AI について。仕事でも AI はある程度は関係するので、技術やその応用については興味があるのだけど、昨年末からの生成 AI とクリエイティブの関係については、「また時代が変わるんだろうな」と思いがする。いいのか・悪いのかということではなく、「変わるんだろう」と。
時代が変わる渦中にある自分が、今この時に感じていること・来るべき革新の予感・未来予想を記し、その時が到来した時に爆笑しながら読み返すために書き留めるテキスト。最近の生成 AI がクリエイティブな仕事を奪うという話から。
グラフィック・クリエーション
Amazon Prime でやっている STAR TRECK PICARD Season 3 のエンディングはスタートレック特有のコンソールデザインが流れるシーンで構成されている。LCARS という全くの架空の戦艦のオペレーションシステムの操作系デザインなのだが、60年近くの変遷の中で数えきれないデザイナー達が、あーでもない、こーでもない、とイマジネーションを膨らませて作り上げてきたものだ。
従来はペインティング、現代はコンピュータグラフィックだが、インフォメーションディスプレイに表示されるオブジェクトは、ひとつひとつデザイナーが作り上げたものだ。オブジェクトひとつひとつの形状や色・その動作にきちんとした意味が込められている。それはひとつのデザイン言語と言えるもので、表現のためのテクノロジーや、時代のデザイントレンドをうまく取り入れつつも脈々と引き継がれている。
自分も触れてみたい、そのボタンを押してみたい。触れればあのコンピュータの軽快なビープ音が聴こえるんだろう。
神は細部に宿るというが、多くのデザイナーの細部へのイマジネーションがイメージ全体のリアリティを創っている。それは人間の想像力を掻き立てるもので、そのクリエイティビティが新しいデザイナーを産み・育て、脈々と受け継がれてきたんだと思う。
ジェネレーティブ・AI – 新次元のコンピュータグラフィック・テクノロジー
コンピュータ・グラフィックの出現によって「この世には存在しないもの」を描くことができるようになった。古くは 1982年 トロン(Tron)のライトサイクル、1993年ジュラシックパークで描かれた恐竜など、この世に存在しないものが現実にそこにあるかのようなシーンに我々は圧倒されてきた。
しかし、ジェネレーティブ・AI という技術革新は映画制作のプロセスそのものを改革するものであり、これまでのグラフィックの表現効果にフォーカスを当てたものとは大きく異なる。グラフィックの見た目には大きな変化を及ぼさないのかもしれない(生成 AI の独特の風合いはスタイルとして感じるところはあるが)。
トロン、ジュラシックパーク、そしてスタートレックをはじめとする映画作品は人々の想像を掻き立てる芸術であると同時に、ビジネスでもある。
年老いたジャン・リュック・ピカードとその同僚を物語の中心と置くことで、スタートレックシリーズとしてはグラフィック等の製作費を大幅に効率化している「スタートレック・ピカード」といえども、シーズンあたり110億円以上の制作費がかかっている。
時を待たずして、コンピュータグラフィックのディテールデザインは AI が生成するものに取って変わるだろう。2023年以降、作品の細部にみられるグラフィック表現は人間がひとつひとつ手塩にかけて作り出したものとは限らなくなる。
SF映画(コンテンツ)で描かれる未来都市やビル群、未来の乗り物、メインキャストの背景に描かれる風景、エキストラ、場合によってはメインキャストまでコンピュータが生成したものに取って代わられる可能性が高い。
いや、SF には限らない。ロケーションではなくグリーンバックを制作に活用している現場は多い。ファンタジーに限らず、ヒューマンドラマやロードムービー、コメディ、あらゆるところで生成 AI による制作プロセスの改革(機械化)が行われるだろう。
クリエイティブな仕事を奪う
AI はクリエイティブな人間の仕事を奪う。前述の通り、コンピュータグラフィック分野ではデザインプロセスから画像生成まで広くシステム化され効率化される。よって、コンピュータグラフィックデザイナーの卵は画像生成 AI に職を奪われる。
映画の脇役の人物設定を作っていた脚本家の卵は GPT 系の言語モデルに職を奪われる。ゲームにおける NPC のトークスクリプトを GPT-4 に置き換えるディベロッパーは既に存在している。
しばらくすると「AIにより圧倒的に低予算で作り上げられた作品」が出現する。おそらくそれは凡庸・退屈な作品で、四流が作る「アバター」のような作品になるんだろう。でも、その絶対的なまでの費用対効果は業界に知られるところとなり、それはコンテンツ制作予算の削減圧力となる。優秀な製作陣が生成 AI をうまく活用した「優良作品」も出て、業界の流れとなる。コンテンツ制作に携わる人間の総数は少なくなる(今回は職の移動ではない、削減だ)。
ポジティブな面としては映画制作のハードルが下がり、構想力だけで予算を持たない若きアーティストが発掘されるかもしれない。「今は個人レベルでこれだけの作品を作ることが可能です」「大切なのは人間のイマジネーションなんです」「技術は人間の想像力を解放します」という文脈が出てくるのだろうが、これは本質的には間違いだ。ある意味において AI は人のクリエイティブな活動を確実に奪うのだ。
コンテンツ制作に携わる人間の総数は今後、急激に減少する。もしかするとコンピュータグラフィックデザイナーや脚本家は伝統工芸品を作る職人のような存在になるのかもしれない。
制作現場には「AI しか選択できなくなる」時代が到来し、人間によるグラフィックデザインはフィルムで映画を作るような懐古的なアプローチとしてみられるようになるのかもしれない。
人間のクリエイティブな営みを奪うのか
今回は「AI がクリエイティブな仕事を奪う」という話をしたが、正確には「人間のクリエイティビティを奪う」という話ではない。例えば波形研究所の読者だと分かりやすいと思うが、AI が楽曲を生成するようになったからといって、自分で楽曲を作る気が失われるか、というとそうではないだろう。イラストを描いていた人は自分のタッチに似たグラフィックがガンガンに生成されることにうんざりはするだろうが、だから絵を描く創造性が失せました、ということではないのではないだろうか。
だって、それは自分が作ったものではないんだから。
でも、この社会構造はそう単純ではない。AI は人のクリエイティビティを奪えない!めでたしめでたし、とはいかないのが現実だ。
それは、現在のクリエイティブを支える産業が衰退(もしくは次のムーブメントに移動)してしまうからだ。Adobe Firefly のようなツールが普及すると、イラスト・グラフィックツールは現在の規模を維持できなくなる。カメラのメディアがフィルムからメモリに移行したことでフィルムは作られなくなった。ガソリン車が電気自動車に移行すればパーツも作られなくなり、メンテナンスガレージも減少する。産業と芸術ではマーケットサイズが違う。これまでの技術革新・産業革命でも同じことが起こってきた。
人のクリエイティビティはどこにいくのか。その詳細はまた考察したいが、ある人はそこに残り、多くの人は違うところに場を移すんだろう。
その次にくること
少し時間は置くつもりだが、続くテキストでは次の論点を整理してみたい。1つは「現在の職を奪われた人間がするべき次の仕事」について。技術革新により機械化・自動化された社会で人間の仕事はどのように変化したのか。2つ目は生成 AI が学習するモデルの更新について。3つ目には1つ目と2つ目を組み合わせた、生成 AI 進化のための人類とコンピュータの協調社会について。
コメント